父のエッセイ
帰省の折、父から父の書いたエッセイを印刷した冊子を手渡されました。
私の父は書くことが好きで、今までも自分の書いた物を私に読ませようとして、コピーを手渡したり、私の家に自分の気に入った本と一緒に郵送してきたりしていました。
父が私に読ませたい本というのは、たとえば坂東真理子さんの『女性の品格』とか山本周五郎の『日本婦道記』とかなので、その題名を見ただけで父の言いたいことが分かり、読む気喪失。本の作者に罪は無いけど、父からのメッセージを感じると容易に手が出せないので送られた本を読むことができません。実は父の書いた物も、ほとんど読んだことはありませんでした。
今回は古谷経衡さんの『毒親と絶縁する』を読んだ後だったので、父との対決という意味もあって、手渡されたエッセイを読んでみました。
『感じるままに』という題名のエッセイには、自分の母(私の祖母)がどんなに大切に自分(私の父)を育ててくれたか、自分はいくつかの大病を乗り越えていまここにあるので生かされている命を大事にしたいとか、同世代の親戚との交流の話が記されていました。所々に父が自分で作った詩や俳句や短歌を織り交ぜながらの大作。娘の私のことは妻(私の母)と一緒に父の病室に見舞う小さな子という記述のみで、ほぼ、自分中心の自分にまつわることが書かれたエッセイだったのでビックリしました。なぜこれを私に読ませたかったのかわかりません。私が喜ぶと思ったの?
だとしたら、やっぱり父は、自分のことしか考えられない人なんだと思います。
文章って不思議ですね。
会話の中で伝えられたら適当に聞き流しちゃうけど、文章として読むと書き手の考えていることがよくわかる。怖いくらいに。
父にとっては私も、私の母も、私の弟も、親戚の方々も父中心のドラマの中の登場人物の一人に過ぎないのかなって思いました。だからこそ、父の望む役割をこなさない人に対しては腹が立つのでしょう。唯一無二の存在として私を見て欲しかったのに。それは到底無理な話だったのかもしれません。
自分史って自分の今までを振り返って、これでよかった、よくがんばったと自分を励まし、自分を納得させるために書くものなのかな。
自己憐憫と自慢話が詰め込まれている父のエッセイを読んで脱力してしまいました。
父と対決するには時既に遅しだったみたい。
自分の中の父に対する確執はもう終わったことにしないといけないと気がつきました。
なんか少しモヤモヤはするけど、いつの間にか私は父を乗り越えていたと思うことにします。
私が文章を書くのが好きなのは父に似たからだと思いました。なんだかんだ言っても似たような気質を持っているところが怖ろしい。これからは自分の中にある父の影と戦って生きていかなきゃならないんだなって思います。