スーホの日記

これからの人生のために!

古谷経衡『毒親と絶縁する』

私には二人の子どもがいて、一人は社会人、もう一人は大学生です。

二人目の子どもが高校1年生の時、志望校として名前を挙げた大学が私の憧れてた大学(だけど行けなかった、というか受験しなかった大学)だったので、その時から私は教育熱心な親になりました。

 

春休みには飛行機に乗って親子で大学見学に行き、塾を掛け持ちさせ、参考書がほしいと言えばすぐにおこづかいを渡しました。

勉強の仕方や内容に口を出したことはあんまりないけど、期待を掛けていたのは事実。夢見てたんだな~と今は思います。

結局、その後志望校は変更され、変更した志望校も不合格となり、子どもは文系の私立大学に進学。親元を離れ、バイトに明け暮れる普通の大学生になりました。

夢を見てしまったからかもしれないけど、これでよかったのかな?もっと勉強させて、なんとか志望校に入ってたら子どもの人生も変わっていたかもしれないなぁと時々反省します。子どもの人生なのにね。

 

毒親と絶縁する』を読むと、古谷さんの両親の受験に対する力の入れようは、当事者にとっては“教育虐待”と感じても仕方ないレベル。

でも、親の立場からすると、子どものことに一生懸命になりすぎてしまうこともあるかもしれないなって少しだけ思いました。自分のことは棚に上げて、夢見ちゃうことって誰にでもあるのかもしれません。自分自身のことではないからこそ、限界がわからなくなる。

 

古谷さんが結婚後、親との対決を決意し対面した際

数えきれない虐待の数々について、両親は平然とした顔で「そんなことをした覚えは無い」「全然覚えていない」と反論した。 

(『毒親と絶縁する』P.181)

とあり、その場面が読んでて一番つらいと感じました。親の側は、虐待のつもりなんてなかったんだなってわかって。だとしても、子どもから虐待だったと言われた時には、きちんと受け止めて心から反省するべきだったと思う。子どもの立場だったらそうしてほしいと思うから。 子どものためを思ってしたことなら、子どもに「それは違うよ」と言われた時に、その言葉を重く受け止めらるはず。それをせずに逃げてしまったことを考えると、本当は自分のためにしたことだったんだね、親自身のためだったんだねって思わずにはいられません。

大人になってからの対決のやりとりの中に親子の深い断絶を見ました。

 だからこその絶縁。

 

私の父も学歴や見た目や勤務先や仕事で人を判断するような人だから、見た目がそれほどよくもなく、パートの私はなんとなくコンプレックスがあって、56歳になっても、もっとがんばらなきゃいけない、もっと何かできるはず、こうなるべき、みたいなものを抱えながら生きているような気がします。そんな私の気持ちが子どもの受験にも影響したのかな。私と親の関係は歪んでいると思うし、私と子どもとの関係も歪んでいるのかも。

 

古谷さんみたいに苦しんだ末に親と対決して絶縁できた人は、そこから新しい未来が始まるけど、親の身勝手な思いに影響を受けながら、親と距離を取りつつ、なんとなく無難に付き合って生きていく道を選ぶといつまでも親の思惑を意識した生き方を選択してしまうのかもしれません。

 

人生の目標を長い間探し続けているところとか、ほめられたくてついがんばっちゃうところとか、お金を使うのが惜しくて妙に節約しちゃうところとか、なんだか羽目をはずせないのは親の重しがあるからなかな、と自分のことを振り返り、いろいろ考えてしまいました。

 

少しずつ殻を破っていきたいな。それにはやっぱり親との対決が必要?

対決せずに乗り越える方法はないかしら?と思う私はまだまだ甘ちゃんなのかな。

 

 

毒親と絶縁する (集英社新書)

毒親と絶縁する (集英社新書)

  • 作者:古谷 経衡
  • 発売日: 2020/10/16
  • メディア: 新書