スーホの日記

これからの人生のために!

消費者市民社会

「消費者市民社会」とは、消費者一人一人が、自分だけでなく周りの人々や、将来生まれる人々の状況、内外の社会経済情勢や地球環境にまで思いを馳せて生活し、社会の発展と改善に積極的に参加する社会を意味しています。 (『平成25年版消費者白書』消費者庁HPより) 私の場合、余裕のない家計をやりくりしての買い物だから、"品質が良くて安い" が商品選びの一番の基準。自分の消費行動が社会に与える影響まで考えて買い物してないし、たとえ、私が "適切な" 消費を行っても、それが 「消費者市民社会」 の実現につながるのか、実感がわきません。そして、一人一人の消費行動が社会の発展と改善に寄与する力を持つとしても、何が適切な消費行動なのかよくわかりません。 だから、「消費者市民社会」 の理念はわかるけど、実現は難しいと感じてました。 崇高な理念だと思っていた 「消費者市民社会」 に対して疑義(?) を唱える論説に出会いました。
「消費者市民社会」 とは、たとえば主権者としての国民が主役になる社会ではない。先述したような<無限の妄想>による購買力を有する(あるいは欲望を掘り起こされる)消費者が主役なのである。そして、国民の主権者という役割が遠景に退く一方で、消費社会での生産物を享受する消費者としての役割をまっとうするためには、何らかの教育/啓蒙が必要であることが消費者市民社会の前提としてある。しかしそれは単純に 「競争の質を高めるための資源」 の拡充であるだけでは十分ではなく、「正しい」 ものでなくてはいけないのだ。(柄本三代子『リスクを食べる』P.206)
消費者市民社会のために 「行動する消費者市民」 とは第3章で論じた 「よき市民」 に等しいのだが、格差や貧困、環境劣化を拡大させ世界中の生産者たちから搾取することで多大な利益を独占的に得ている多国籍企業を糾弾したり、食料自給率を低下させ続ける元凶ともなりかねない新自由主義市場経済に異議を唱えたり、買いたたかれ続ける米農家の現状を訴えたり、生活保護や介護・医療保険制度の不備といったたぐいの 「社会倫理問題、多様性、世界情勢、将来世代の状況等」 を訴えたりするような主権者としての国民あるいは規範性Ⅰの発揮は含意されていない。(同上書P.208)
新自由主義が席巻するグローバル経済下で、その流れを肯定し、従順に受け入れる消費者市民社会こそが消費者市民社会では求められている。いかに貧困状況に陥ろうとも、経済成長を支え、経済成長にこそ幸福と希望を見いだす消費者市民が望まれているのだ。そのすでにあった思潮に、法律的根拠や制度的枠組みが与えられたのである。(同上書P209)
鋭い指摘だと思う。 消費行動に理念を与えること自体が危険なことなのかもしれない。それは一人一人が考えるべきことだから。 一方で、このような論説が登場するのは、「消費者市民社会」 という理念がある程度社会に受け入れられた結果だとも思う。今後もいろいろな議論が続いて "消費" について考える機会が増えて、"消費" についての理解が深まることを望みます。