三砂ちづる『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』
夫が急に入院。
命に関わるような病気ではなかったので、ホッとしました。
コロナで病院が大変な時期に、すんなり入院できてありがたかったです。
退院の際、病院で、迎えに行った私のことを夫が叱るようなことがあったら、この人とはこれから一緒にいられないなぁと思いながら、病院に行きました。
そんなことを考えるなんて、普通の夫婦じゃないですね。
でも、今までを振り返ると
帰りの飛行機の到着が1時間位遅れ、お迎えに来てくれた夫に怒られたこと
車庫入れに手こずってたら、教習所で何を習ってきたの?と言われたこと
夕方、子ども達と外で日暮れまで遊んでいて帰宅が遅くなった時に、通学していた学校に電話されたこと
などが思い出され、今回も、何か言われるんじゃないか、と身構えてしまいました。
結果は、叱られず
「ありがとう」
と感謝されました。
当たり前か・・・
そういえば、叱られたのはもう10年以上も前の話。
最近は、叱られたり、怒られたりはあんまりないかもしれません。
それでも、どんなに時間が経っても、叱られたこと、怒られた記憶は、残ります。
何かある度に思い出してしまいます。
みんな、叱られると、本当は、死ぬのだ。自分の一部が少しずつ死ぬ。
(三砂ちづる『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』P.214)
本当にその通りだと思いました。
私も子ども達を叱ってたから、夫だけを責められないけど、これからは、叱らずに、怒らずに、相手と接したい。
そうしなければ、いけないのだ、どんなときでも、と思います。
「わたしたちは、みんな、ほめられたい」
と題されたこの本のエピローグを読むと、叱る、あるいは叱られる、ということの本質が書かれています。
死んでしまった自分の一部を取り戻すために今の自分がいるのかもしれません。