スーホの日記

これからの人生のために!

映画 『否定と肯定』

ナチスによる大量虐殺は行われなかったと主張する 「ホロコースト否定論者」 イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングが自分のことを著書で侮辱したとしてユダヤ人の女性歴史学者デボラ・E・リップシュタットを名誉棄損で訴える。

訴えをおこしたイギリスの裁判所では訴えられた側に立証責任が生じるので被告側のリップシュタットがホロコースト否定論者の論理の整合性を覆さなくてはならない、ということでダイアナ妃の離婚裁判に勝訴した敏腕弁護士に裁判を依頼し、絶対に負けられない戦いに挑むという実話を基にしたストーリー。

依頼を受けた弁護士アンソニー・ジュリアスはチームを組んでアーヴィングの主張が破綻していることを彼の膨大な日記や著書から立証しようと試みる。

一方のアーヴィングは弁護士を立てずに自分ひとりで法廷で証言。マスコミを巻き込みながら持論を展開し、ホロコーストはなかったというイメージを大衆に向けて発信してゆく。

リップシュタットは、ホロコーストの生存者たちに証言してもらうことで、ホロコーストが事実であり、ナチスによるものであったことを立証し裁判に勝つべきだという強い思いから、一時は弁護団と対立してしまう。

しかし、弁護団のプロフェッショナルな仕事に徐々にリップシュタットが理解を示し、弁護団もリップシュタットの心情を理解し、お互いに歩み寄る姿がていねいに描かれている。反面、持論を展開し続けるアーヴィングはいつまでも一方的で頑なな態度を崩すことはなかったのが対照的だった。

「卑怯者は安全なときだけ居丈高になる」 ゲーテの言葉の引用

「目を合わさずに相手を批判すると相手にダメージを与えることができる」

などの心に残る名言が出てきておもしろかった!

ホロコースト否定論のためにわざわざ裁判をするということが、私にとっては驚きだったけど、それに応じてきちんと反論し、判決を得るという生き方はすごいと思ったし、裁判所も熟慮の末判決を出すという、当たり前のことかもしれないけれど、ものすごく尊い現場を見た気がしました。裁判所の役割を再認識。こういう過程そのものが民主主義というものなのかな。

たまたま読んでいた加藤典洋の 『敗者の想像力』 に日本でも大戦中のできごとについての記述について名誉棄損で争われている裁判があったことを知りました。

2005年8月5日、大江健三郎は突然、『沖縄ノート』 での記述を理由に、版元である岩波書店とともに、沖縄戦の当事者だった慶良間列島の守備隊長ともう一人の守備隊長実弟を原告とする原告団グループの手で、名誉棄損の提訴をされる。 (加藤典洋 『敗者の想像力』P.216)

きちんと向き合うということは、それほど簡単なことではないんだと思いました。自分自身が変化しないような向き合い方は、まだまだ本物とはいえないのかもしれないと思いました。